英語教育雑感

英語教育雑感part2

一斉ビンゴ

ビンゴのバリエーションのひとつ。


みんな同じビンゴ表を持つ。

先生の指示にあてはまる単語を消していく。

たて、横、斜め、一列ずつ揃ったらビンゴ!だが、


みんな同じタイミングでビンゴになるので、自分がそのタイミングでビンゴにならなければ、どこかでミスをしているはず。

みんなで一斉にビンゴになることが目的のビンゴ。

母語である、日本語の学びがもたらしてくれるもの

アルク日本語教師養成講座を受講することにした。もう早速申し込みをしてある。


母語である、日本語の感覚、文法的分析力を

磨くことは、英語の感覚、分析力をどのように高めてくれるのか?


例えば、大津、窪薗の「ことばの力を育む」では、日本語によるあいまい文の解釈力がつくようないくつもの例が載っているが、

日本語教師養成講座でも、



     シャボン玉飛んだ   屋根まで飛んだ



の文のふた通りの解釈が文法的にできるようになるらしい。


これは、なんとも楽しみ♪


母語の学習が異言語の活用になにをもたらしてくれるかを体感しながら、受講したい。


また、4月4日から、日本語教師ボランティアとして活動することも決まり、英語を教えることとの両刀使いになることが決まった。


先程のシャボン玉飛んだ、のふた通りの解釈。

1 シャボン玉飛んだ。シャボン玉が屋根まで飛んだ。

2 シャボン玉飛んだ。屋根も飛んだ。



塾の先生のための語彙指導アイデア

塾の先生のための語彙指導アイデア集をまとめてみたい。

塾では、いろいろな意味で、語彙指導が上手く行われているとは思われない。まずは、

先生方が、語彙指導についての理論を大雑把でもよいから、頭に入れておくべきだ。

そして、塾ならでは、の制約の中で出来る

語彙指導を考えていく必要がある。

  例えば、学校では、ビンゴは出来るであろうが、塾という受験指導がメインの場所では、たとえ、どんなにビンゴが有効であったとしても、取り入れ難いであろう。

ビンゴができなければ、ではどうするのか。


ともすれば、単語テストだけになりがちな語彙指導を一工夫してやる方法を考えていきたい。

「英語くらいは」への違和感と自己反省

外国語を学ぶ目的は何か、と問われれば、


1日本語とは異なるルールを持つ言語が世界中にはあることを知り、日本語が絶対的な言語ではなく、相対的なものである、という健全な言語観を持つこと

2 世界中の言語には、優劣はないという健全な言語観を持つこと

のように、まずは、健全な言語観を育てることに資するものでなくてはならないと
考えています。

このような目的を達成するためには、必ずしも英語を学ばなくても、フランス語でも、タガログ語でも、アイヌ語でもよいわけで、たまたま英語をひとつの言語として学ぶことになっているに過ぎないのですが、
やっぱり英語くらいは、という英語至上主義には根強い支持があり、英語教師としてはそれに加担してしまうことも多い、
という自己反省をここにきちんと書き残しておきたいと思います。

認知科学に基づく語彙指導研究会 春の定例会


日時 3月28日土曜日 12時50分〜17時
場所 越谷市中央市民会館(埼玉県越谷市)
内容  「授業改革についての一考察」
          野上文子
        
         「医療分野における日常的な
           英 単語の専門的使用に関
           する考察」
          小山田幸
          
          「ペアプラン二ングが高校生
             のロールプレイタスク
           パフォーマンスに及ぼす影響」
           岡田順子

あと、簡単な会員総会やります。

参加費 1000円

問い合わせ・事前予約
ie496@r8.dion. ne.jp
岡田順子  まで。
  

日本人と英語


  日本人、というか、正確には日本語を母語とする人々にとって、英語とは何なのだろう。

  今のお父さん、お母さん世代の人にとっては、英語や英会話は、自分の趣味で習いたいという人が多い。
  他の言語を趣味で習うことが出来るというのは実に幸せなことである。特に権力と結びつきやすい英語を趣味で勉強したいというのは、本当に幸せなことなのである。
  イギリスやアメリカが植民地化した国では否応なしに英語を身につけなければ生きていけない。または、よい仕事につけない。
日本も戦争に負けた時、日本語を禁止され、英語を公用語として使うことを強いられていたら、みんな戦々恐々として英語を身につけただろう。その結果、日本語や日本文化は絶滅危惧種になっていたかもしれないのだ。そういう悲劇的なことがなかったから、私たちは、英語、英会話を学ぶことを趣味として選択することができる。
  そして、この世代の人は、子どもたちには英語を身につけさせたいと考えて、子どもの頃から英会話を習わせたりしている。
英語がどんなに権力と結びつく危険な言語だということにはまるで気づいていない。この天真爛漫さは恐ろしいことである。
母語というものが私たちにとってどれだけ大切なものか、考えていない。
   英語教育は、反国際的な教育、という一面を持っている。その危うさにもっと敏感であるべきだ。