閑話休題 ー私とSLAの記事を書くに至った「新英語教育」の記事
ここで、「私と第2言語習得理論」の記事を書くに至った、私が「新英語教育」に書いたある記事を載せておく。
ただし、私の批判している羽藤由美氏の記事を紹介できないので、羽藤氏に申し訳ないのであるが。
「新英語教育」9月号p2.
6月号巻頭論文に関する一考察
〜外国語教育としての教育理念を見失わないために〜 岡田順子
「新英語教育」6月号巻頭論文の一番大きな誤謬は、羽藤氏が、日本の児童・生徒・学生は、英語を「第2言語」としての学んでいる
と認識している点にある。氏のこのような認識は、「英米の旧植民地のように、日常的に英語が使われる環境であろうと、日本のように教室外ではほとんど使われない環境であろうと(中略)、第2言語習得のメカニズムは変わらない」と述べていることに端的に表れている(本当は前者の環境こそが第2言語習得、後者のような環境は外国語教育である)。
日本では、英語は、「外国語教育」の一環として学ばれており、「第2言語」として学ばれているわけではない。これは本質的な違いである。「第2言語」を習得する場合というのは、別の言語を「第1言語」として学んだ人が、何らかの理由で海外に行き、そこで
定住する場合など生活のためにその国の言語を学ぶことになったような環境を指す。または、氏自身があげているように、どこかの国の植民地となり、その国の言語を学ぶことに
なったような環境のことを指す。そして「第2言語」は、しばしば「権力の言語」となる
構造になっている。
日本の英語教育は、これには相当しない。
「第1言語」(多くの場合は日本語) とは違う体系を持った言語を学ぶことにより、第1言語を相対化し、言葉の面白さ、恐ろしさを理解し、みずからの言語生活が豊かになるために学んでいるのである。いわば、「人間教育」の一環として学ばれるのが「外国語教育」である。
日本が「外国語教育」としての教育理念を
放棄し、第2言語習得に向かおうとする昨今の風潮は本当に正しいのであろうか。そんなことを痛感した論文であった。
注:私自身は、第2言語習得理論を学んだ者である。